「すき家」の勤怠管理システムと市役所の生産性向上について

これは、びっくりすると同時に、色々と考えさせられる記事でした。
近年、従業員の過重労働の問題で批判を浴びている「すき家」のゼンショーですが、今までずっと紙とFAXで行なっていた勤怠管理を電子化するとのことです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150413-00000055-zdn_mkt-ind

ネット上では「一部上場の大企業であるにも関わらずそんな有様だったのか」「優秀な社員だってたくさんいただろうに、なぜ誰もそこを電子化すべきだと思わなかったのか」といった批判が多く見られます。
私はむしろ、これは「優秀な人間が多く集まる」名の知れた「大企業」である故の病弊なのではないかと思います。

私はIT企業に勤め、さまざまな会社のシステム構築や合理化に携わって参りましたが、大きな組織の場合は、非合理や無駄を抱え込めてしまう余裕と、一度構築したワークフローを変えるのが難しいという問題があります。また、「知は権力である」というフーコーの有名な言葉があるとおり、人間は勉強で優秀な成績を取るという行為を通じて知識だけでなく権威(=親や教師の言うことを聞く、世評の定まった本や学者の言うことを正しく解釈する)も内面化しますので、その完成形である大企業の正社員にはどうしても今あるものに服従しがちで直感的に合理的だと思うものに挑戦するという気概に欠ける面があります。

そして、それは世間の水準でいえば大企業と同じく高学歴で優秀な人材が集まった一大組織である市役所にも全く当てはまる話です。

しかし一方で、大企業と市役所を比較した場合、私は、実は市役所の方が有利で、民間よりも高い生産性をあげ社会を先導することができる可能性があるとも考えています。

確かに、市役所には私企業に比べリスクを負う人間がおらず、経営者が必死に働くインセンティブがないという根源的な弱さがあります。一方で、二代目が引き継いでいて株式も持ち合いであり市役所と同じくらい誰もリスクをとらない無責任体制に陥っている大企業も世間には多々あります。

また、市役所が私企業に比べて生産性の面で有利なのは、ステークホルダーの立場が平等であることです。株式会社の場合は発言権が保有する株式の数に左右され、さらに経営者や利害関係者がそうすべきだと思いたたない限り外部から非生産的なシステムや怠慢をいくら指摘されてもそれを改善する義務はないわけですが、市役所はステークホルダーである市民の声には必ず耳を傾けなければならず、また、能力に応じて平等に徴収された税金で運営されているため、確実に行なえる合理化は必ず行なわなければならないという生産性向上のための圧力が存在します。

例えば、市民の参加意識が高く、市民の「平等」の概念が浸透していて、大企業への対抗意識が強いヨーロッパでは、Microsoftのソフトを使わずにフリーウェアやlinuxを用いる等して自治体や公共セクターが日本の大企業よりもはるかに勤勉に事務コストの削減に勤しんでいる例がたくさんあります。

私は以前フリーウェアの導入で3年間で1億円以上のコスト削減に成功したフランスのトゥールーズ市の例を紹介しましたが、欧米の場合はさらに、地方自治体だけではなく、NASAや国防省や(フランスの)国家憲兵隊などの大規模組織でもUbuntuなどの非Microsoft OSのへの切り替えを積極的に行なっています。

http://japan.zdnet.com/article/35053001/2/

http://yoshito-terashima.com/%E8%A1%8C%E6%94%BF%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%EF%BC%882014/

また、それらの国々の多くは、人口における公務員の割合が日本よりも高いにも関わらず(日本はOECD平均の半分以下)、一人あたりGDPや時間当たり生産額の生産性の面で日本より高い成績を挙げています。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20140826-00038579/

日本衰退論への疑問:自治体の生産性向上の余地について

近年、政治に関する言説で疑わしいなと思うものの一つに、
「日本は少子高齢化により人口が減少するので、これ以上成長できない」
というものがあります。

私が子育て支援を推進しようとしているのは、子供を持ちたいと思う人が持てるようになり、それによってよって人生を豊かにし、子供の歓声が街にあふれることで街に活気がでて、みんなが夢を持てる社会にしたいからです。
人口を増やさなければ撤退戦を生き残れないとか、財政破綻するとか、そういった後ろ向きな動機で主張しているわけではありません。

例えば、先日紹介させて頂いた木下斉氏は、人口ばかりに注目して「生産人口×生産性」という経済の原則の「生産性」の部分に目を向けない議論に苦言を呈しています。

http://blog.revitalization.jp/?eid=810920

ドライバーしか持たない労働者3人よりも電動ドライバーを持つ労働者1人の方が高い生産性をもち、またそれによって生まれた余剰を別の部分へ投資する(も う一台電動ドライバーを買う、余った人員を生産管理や教育や拡販に回す)ことが可能になるわけですが、木下氏は現代には電動ドライバーよりも遥かに強力で かつ人の生産性を上げる「IT」という武器あると述べています。

高い交通費と時間を使わずともSkypeで遠く離れた人同士でミーティングを行なうことは可能ですし、Google Docsを用いれば机を並べずとも共同で執筆を行なうことができます。
従来は、電話会議も、作業管理システムも、ホワイトボードのある会議室も、それなりの規模の企業にしかなかったわけですが、今では誰もが無料で使うことができ、数人の仲間でもそれらを用いて大企業に負けない事業と活動を行なうことが可能になっています。

また、IT企業に勤めていた私からみると、日本は先進国に比べてそれらの活用が大幅に遅れています。先ほどのドライバーの喩えでいえばほとんどの人がまだ手回しのドライバーを使っているような状況だと思います。
木下氏は、女性や高齢者が生産に関わるハードルを下げ、共に学びこれらのツールを駆使することで少子高齢化に対応した新しく豊かな社会を築くことは可能であると述べています。

そして、この「生産性」の観点からもう一度越谷市を考えてみると、越谷市においても、少子高齢化が衰退にすぐつながるという図式は当てはまらず、むしろ以下に記すような活かされていない人や資源を「攻め」に使う戦略こそ必要なのではないかと思います。

1.失業者
越谷市は労働人口の6%(2010年)に及ぶ10137人の失業者がいます。
完全失業率というのは働く意志がありかつ実際に求職をしているにも関わらず働けない人々のことです。彼らは生産に携わることができず、また、所得と、将来的にそれが伸びて行くだろうという希望もありませんので消費にも限定的にしか関われていません。
彼らの存在に言及せず、彼らを活かすことが出来ていない状態で、人口が足りない、衰退するしかない、という議論を展開するのはおかしいのではないでしょうか?

2. 低い生産性
我々の社会はこれ以上成長しない、という議論がなぜ世間でもてはやされるかといえば、それは「自分たちはすでに成熟しきっている」「最先端で効率化されつ くしているのだからこれ以上成長の余地などあるわけがない」という自虐と表裏一体で自尊心をくすぐるような面があるからだと思います。
しかし、越谷市は私が先日の投稿で紹介したようなオープンレジーム(=裁量ではなくルールを重視し、既得権のない新規参入者にも開かれた制度)な市政の枠 組みの構築が全く出来ていませんし、情報公開の面においても、IT化による行政の効率化においても遅れをとっています。また、それらのほとんどは、莫大な 公的支出を行なわずとも、意識を切り替え、組織を再編し、愚直に先進諸国や先進自治体のやりかたをなぞり、定評のある無料のフリーソフトを導入したりする だけで簡単に行なえることです。

http://yoshito-terashima.com/%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%8E%E…/

また、民間の生産に関しても「日本からはAppleやGoogleのような企業が生まれていない」「イノベーションを生むような文化的土壌がない」という ような意見がありますが、これは経済や価値や人間の可能性というものを非常に低く見積もった見解だろうとおもいますし、国際競争に勝つことだけが働くこと の目的ではありません。
例えば、職場でくじけてしまって退職し、日がな一日をインターネットに費やしている無職の若者でも、子供達にパソコンを教えたり高齢の事業者の作業を助け ることが出来ます。そして、そうやって他人を助け、他人の生産性を底上げすることで、トータルで国際企業の社員に負けないだけの「価値」を生み出すことは 十分に可能です。
私は昨年、高齢者の方々への年賀状をデザインするためのパソコン教室を開催しました。一ヶ月かけて手書きで大量の年賀状を書いておられたかたにとって、そ れが1日で出来るようになれば、私はその人に29日の自由になる時間という価値を提供したことになります。私は憚ること無く「良い仕事」をしたと公言でき ますし、それは誰にでも可能だと考えています。

3.財政と経済動向、および開拓されていない市場
また、成長の話をすると高齢化と共に出て来るのが財政赤字ですが、越谷市の実質公債比率(収入における債務の返済の割合)は10%前後であり、注意水準の 18%にはまだ至っていません。さらに、今後経済が今のインフレ基調で推移すれば(その可能性は昨今の日銀人事を見る限り非常に高いと思います)、マネー の価値が生産や投資に比べて下がるわけですから、債務の重みも必然的に低下します。

私は今現在の越谷の財政には注意を払いつつも、失業者(お金と違って失業期間が長くなればなるほど悪化します)や、安倍政権が関心を持っていない貧困対策に対して、より危機意識を持つべきだと考えます。

財政規律に膨大な時間を費やし実質公債比率が(安全圏の)10%から(安全圏の)5%に低下したからといって、その間に失業と貧困が拡大し、彼らが本来行 なえたはずの仕事を行なうことができず、失業期間が長引きすぎて精神的に駄目になってしまったり、あるいは自殺(=失業率と最も相関のある現象です)の増 加をもたしてしまったら元も子もありません。

お金という目に見える指標につられて、目に見えづらい市民の人生(=ある人間が生涯で生み出す価値や人間関係の全て)を毀損する愚は避けるべきです。

私は、公共事業は過去の失敗に学んで「リスク」「経営権」「責任」の一致が守られたかたちで行なわれれば決して悪いことではないと考えていますし、また、越谷市では現在、ニーズがある一方で土地当たりの収益率が低く民間が手を出しにくい
1.育児支援
2.高齢者福祉
3.貧困家庭の子供達のための教育
という未開拓の「市場」が膨大にあると踏んでいます。
私は、行政は積極的にこれらの領域で活動を行なっているNPOや個人に投資をすべきだと考えます。彼らのような社会起業家の生み出す価値と雇用は越谷の未来を明るいものにしてくれるだろうと確信しています。

ハンコ文化と役所について

役所には様々な不合理な文化があり、中でも特に問題なのは判子文化だと思うのですが、この判子文化について千葉市の熊谷市長が興味深いことを述べられています。
日本では不動産の購入や自動車の売買の際に印鑑証明が求められていますが、実際にそれは法律で定められているわけではなく、また、免許証などで本人確認を行なえるにも関わらずわざわざ印鑑証明カードを持って来るように義務づけるような仕組みは廃止すべきだとのことです。

http://www.huffingtonpost.jp/2013/06/02/story_n_3376343.html

この制度を世界で採用しているのは日本と韓国くらいであり、その他の文化圏では個人によるサインがほとんどです。また、市長の他の発言では、実は千葉市役所では出勤簿や出張命令簿ですら判子を用いる文化であり、判子文化の廃止の考えを市役所職員に伝えたところ
「ハンコだと押した時の気分などで綺麗だったりずれていたりする。あとで振り返ってその時の自分の気持ちを思い出せる」
などという驚くべき回答が返って来たとのことです。
これらは一見小さな問題かもしれませんが、本質(=本人を確認をするとは如何なることなのか?)を考えずに形式に固執してやらない言い訳を捻りだすことに頭を使う市役所の文化はこういったところから培われていくのだと思いますし、このようなマインドでは何も意味のあることなど行なえないことは明らかです。
私は熊谷市長の意見に賛成ですし、越谷市でも役所の実態を調査したいと思います。

国交省のコンパクトシティ構想と政治(2015年01月20日)

我々が住む「市」という行政単位について、考察した面白い記事でした。都市としてのコスト削減や、コミュニティの再生などの解決策として提示されていたコンパクトシティ政策実現の困難さを政治学の立場から論じています。

http://synodos.jp/politics/6143

従来は市制において最も重要なのは「集積」でした。経済や商業の集積地である都市部に投資を行なうことはその周辺に住み労働力と消費を提供する郊外住民の利益とも一致していたものが、モータリゼーションやショッピングモールの登場などにより集積地が郊外に移動し、分散型の社会になってきた現代においてその図式は崩れつつあるという趣旨です。
そしてその上で、筆者は政治制度を改めないまま市の産業や商業地区を政治的に集積しようというコンパクトシティー構想に対して疑義を提示しています。

以下、重要な単語や概念をまとめてみます。

記事の問題設定:集積地の発展が郊外住民の利益と結びつかなくなってきた現代において市制はいかにあるべきか。
集積地:市の商業や消費が集まった経済の駆動部。しかし、地価の高止まりや技術的環境の変化(鉄道、モータリゼーション等)により人口が高止まりし、現在の人口割りの選挙制度では発言力が弱い。
郊外:労働者やその家族が住む住宅地。現在の選挙制度では多くの票を持ち、発言力が強い。
戦前の集積地:古くから歴史がある市街地。
戦後の集積地:鉄道駅周辺。
最近の集積地:より郊外の住宅地に近いショッピングモールなど(モータリゼーション)

従来の市政のメソッド:いわゆる「都市計画」。起源は人口増加と経済発展が前提となっていた戦前の市政交付(明治21年)で、人口が集中する都心部の開発を行うとともに、人々の寝所となる郊外の宅地を開発し、また、工場や貧困地域などの「悪所」を改善するというもの。

コンパクトシティ構想:地方の人口減少と市街地の空洞化への対策として、居住地域と商業施設と医療施設を都市部に集約させ、効率化と住環境の向上をはかる施策。しかし、この構想を実現するためには都市部が政治的リーダーシップを発揮しなければならないのだが、現在の選挙制度では難しい。

コンパクトシティ構想の分かりやすいイメージ
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/service/newsletter/i_02_68_1.html

現在の市議会の選挙制度:現在の区割りが厳密にされていない大選挙区制の市議選においては、面積が広く市議の棲み分けができている郊外出身の議員に比べて面積が狭い都心部出身の議員は互いに競合しがちになり、都心部の利益を代表する安定した政治勢力は生まれづらくなってしまう。また、市議会がそういった状態であると、市の全域から票を集める市長や府県議会議員からすれば都市部の再開発よりも議会から独立して市内全域の郊外住民から広く票を集められる交通機関への投資などの政策の方がインセンティブが働くため、結果的にコンパクトシティ構想と対立する。

政策評価と費用便益分析について(2014年12月11日)

これは、非常に参考になる記事でした。

http://synodos.jp/politics/11510

基本的に市政で何かを実施しようとする場合政治家は、他市のとの比較(例えば、「隣の市は高齢者バス乗車賃を無料にしたのだから我が市も」)や、理念に訴えること(例えば、「敬老祝金の廃止は、高齢者を敬うという原則に反する。廃止してはならない!」)などを論拠にしがちです。

しかしそれだけでは駄目で、政治家や行政関係者自身が自分たちのアイディアがどれだけの「便益」を生み出せるのか、その価値を算出できるようにならなければならないということです。
また、最新の行政学の研究では、例えばCO2削減のような環境問題や福祉のような従来の費用対効果では測れないものまで数値化可能だとのことです。
貨幣価値と言ってもいくらの売上があるといった直接生み出される金額ではありません。例えば保育や医療サービスは、それ自体は会計的な価値(=利用料)はあまり生み出しませんが、治療を受けたり子育て負担から解放されたりすることでその人が自由になり経済活動に参加できるようになるという「便益」があると考えることができるということです。

そして、ある公共政策がそのコストに見合っただけの便益を生み出せているかを評価する「費用便益分析」が政策決定で重要だと述べられています。大まかな流れは以下の通りです。

(1)政策の代替案を決める
(2)各代替案のインパクト(効果や影響)を定量的に予測する
(3)インパクトを貨幣の価値に直して評価する。さらに、現時点での価値(割引現在価値)に換算して合計する
(4)費用と便益とを比較する
(5)分析の前提条件を変えると便益や費用がどの程度異なるかを評価する(感度分析)

これは非常に重要な概念であり手法であるので、機会をつくってしっかりと腰を据えて学びたいなと思います。

以下、その他重要な概念を要約します。

事業評価:その事業によって期待される政策の効果や、事業の実施に伴う費用を計測、推定するのが主な作業になる。

実績評価:「施策」や「政策」を対象とし、あらかじめ設定しておいた達成目標や業績指標が達成できているかを評価するものである。

総合評価:「政策」について、政策の決定後一定期間経過した段階で、政策の効果や問題点について、さまざまな観点から総合的に評価するものである。

便益:「この政策には意味がある」というときの「意味」を貨幣換算したもの。上記のとおり、会計的な価値ではなくその政策が生みだす「便益」を貨幣価値であらわしたもの

機会費用:その活動を行なうことによって失われる別の成果(=例えば、ある時給1000円で働ける人を無意味な活動に5時間拘束させた場合、機会費用で5000円の損害が発生することになります)

外部費用:たとえば公害や騒音など、市場取引を経由しない形で市場の外部に負の影響を与えるもの計上したものです

アドヴォカシーについて(2014年10月11日)


私がこの中でも特に重要だと思ったのが「アドヴォカシー」でした。
アドヴォカシーは日本語に訳すと「政策制度要求」です。
つまり、就労支援を行なっている団体や組合の職員が「政治や行政には何が出来るか」ということを把握した上で「ここを変えて欲しい」要求できる、そういう素養を身につけているということですね。

日本の自治会や団体にはある種潔癖性的にいわゆる「政治」とは距離を置こうとする傾向があり、直接お伺いして「行政としてやれることはあるか?」と尋ねても、なかなか答えてもらえないことも多いようです。そういった現場で活動されている方々により「政治」という手段を認知して頂いて、交流が活発になれば、確実に世の中はよくなっていくと私は考えています。

http://synodos.jp/welfare/9905

行政におけるフリーウェアの可能性について(2014年10月09日)

今現在、役所や企業の事務処理にはMicrosoft社製のWordやExcelが用いられていますが、近年は、これらと同等の機能をもっていてファイルの互換性もある「フリーウェア」が普及しています。
フリーウェアは有志のプログラマーが作り無料で公開しているソフトのことで、ソースが公開されているので情報秘匿の面でも安全性が高いといわれています。

実際、フランスのトゥールーズ市は市のパソコンのMicrosoft Officeをフリーウェアである「LibreOffice」に切り替える事で最初の3年間で100万ユーロ(1億円超)の歳出削減に成功しているそうです。

http://opensource.slashdot.jp/story/14/07/27/069218/%E4%BB%8F%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA

トゥールーズ市の人口は43万人でおおよそ越谷と同程度ですが、同じくらいのコストカットが見込めるのであれば非常に魅力的ですね。

私はまだこの件については公約に盛り込んでいないのですが、OSそのものの非Microsoft化(UbuntuなどのLinux。これらも全て無料です)も含め、検討したいと思います。