渋谷区の同性愛カップル認定とそれに関する言説について(2015年02月17日)

東京都渋谷区は同性カップルに「結婚に相当する関係」と認める証明書を発行する条例案を区議会に提出しました。可決されれば4月1日に施行されるそうです。
現在、同性愛者の方々はパートナーと法的に婚姻関係を結べないことで引っ越しや病院の手術同意書等で不利な状況に置かれています。今回の条例は違反した業者を公開することも盛り込んでいますので、そういった状況の改善に効果があると思います。

http://news.livedoor.com/article/detail/9775209/

ところで、同じ渋谷区が行った昨年末のホームレス排除と今回の同性愛者の地位向上政策は同じオリンピックの地ならしのための「ピンクウォッシュ」(*)であると批判する方もいます。しかし、たとえそのような意図があったとしても、人権を天秤にかけるべきではありませんし、それを理由に賛否を決めるのではなく、個別の施策ごとに賛否を決めていくべき
だと考えています。私は昨年末に渋谷区が行なったホームレス排除には反対意見を表明しましたが、この同性カップルに対する条例には賛成です。

*:野宿者や社会的弱者の生存権に関わる強硬な政策を実現するために、バーターとして性的マイノリティの地位向上や男女共同参画など財政負担が少なく富裕層や文化人に支持されやすい政策を行なうことで批判をかわす策略のこと。代表的な事例としては、性的少数者の権利擁護をパレスチナ侵攻の正当化に利用したイスラエルの宣伝が挙げられている。

ペットの大量遺棄事件について(2015年02月12日)

最近山林でのペットの大量遺棄の報道が目立ってきています。
埼玉の近郊でいえば、元ペットショップの店員が栃木県の鬼怒川河川敷に40頭の犬の亡骸を遺棄して逮捕された事件がありましたが、同様の事件は群馬、山梨、埼玉、佐賀でも発生しています。

http://news.livedoor.com/article/detail/9496507/

ペット業者からの犬の引き取りを自治体が拒否できる改正動物愛護法が施行されたのは昨年2014年のことです。帳簿の登録や健康安全計画の作成を義務化するというそれ自体決して悪い法律ではないものの、繁殖工場で子犬を大量に生ませオークションで販売するという大量生産モデルから業界と飼い主側が抜けきれていません。

現在、ペットショップで売られている犬の多くは個人経営のブリーダーではなく繁殖工場という金網に閉じ込めた母犬を死ぬまで糞尿を出しっ放しの劣悪な環境で子犬を生ませ続ける施設の中で「生産」されています。そして、競りにかけられてペットショップに届いたのちも、一般的に市場での取引価格は成犬よりも子犬の方が高いので、同じショウケースのスペースを占めさせるのであれば売れ残った犬を処分して新しく仕入れた子犬を据えた方がいいということになってしまうため、次から次へと処分されてしまうのです。

http://synodos.jp/society/12723

もっとも、この問題を調査研究している朝日新聞メディアラボの太田氏曰く、自治体での殺処分自体は順調に減少しているとのことで(太田氏が取材を始めた頃は8万頭ほど、2012年は39359頭。過去には20~30万頭処分されていた時代もあり)、恐らく業者によって不法に遺棄されている頭数を含めても減少しているとは思うのですが、ペットを飼う側にも規制を敷き義務が課せられるドイツのような先進国の水準にはまだ至っていません。

そして、今すぐ業者や消費者に対して全面的に業態や意識の改革を求めることは難しいものの、行政とメディアという2つのファクターのそれぞれに対して、太田氏は以下の提案をしています。

【行政】
→「嫌われる行政」になることを覚悟して業者と飼い主に圧力をかけること
→指標は返還率と譲渡率
→譲渡に関しては、譲り渡しを個々人に限定せず動物愛護団体などへの団体譲渡を認めること
→業者の監視や指導はアポをとらずに抜き打ちで行なうこと
→定時定点回収はやめましょう(いわゆるゴミ回収と同じシステムで動物を引き取ること。茨城ではすでに取りやめ、殺処分件数を減らしている)
→熊本県は安易に引き取りを求めてきた市民に対して説得を行なっている
→愛媛県は殺処分の現場を飼い主にみせるツアーを行なっている

【メディア】
→動物やペットの「かわいさ」を前面に押し出した番組づくりは自重すべきではないか?
→共に生き、共に老い、死ぬまで面倒を見るという命を扱うことの本質から目を背けさせている
→「動物は視聴率がとれる」という安易な考え方を止める
→殺処分をなくすことについての啓蒙をする

薬物依存とSMARPP活動について(2015年01月29日)

元来、薬物依存者に必要なのは「罰」ではなく「治療」なのではないかということはたびたび指摘されてきましたが、この記事の執筆者である精神科医の松本氏も同様の見解を述べられた上で、釈放後も継続的に治療が行なえるような仕組みづくりを提案されています。

http://synodos.jp/welfare/12157

薬物依存の治療はお金のように貯めることができないため継続して通い続ける必要があり、かつ参加率を上げるためには出来るだけ各地域でそれを受けられるような環境を整える必要があるわけですが、現在は薬物依存専門の医師が少ないためにほとんどそれが行なわれていません。

それに対し松本氏が行なっておられるSMARPP(せりがや覚せい剤依存再発防止プログラム)活動では、医師資格がなくともアメリカの同様の治療メソッドと認知行動療法に基づいたマニュアルで研修を受ければ職員になることができ、依存症患者への定期的な連絡や来訪しやすい雰囲気づくりの面でも工夫がこらされ、かつ実際に継続率や他の自助プログラムへの参加の面で高い成績をあげておられるとのことです。

現在、このSMARPPをベースにしたプログラムは全国70カ所で準備中もしくは展開済みであり、また、少年院などの未成年の薬物依存患者にも2012年から試験的に実施されています。

また、なぜ犯罪者のためにそこまでコストを払わなければならないのか、という意見はあるかとは思いますが、私は、例えばある若い常習者が初犯の薬物依存から抜け出せずに人生を丸ごと駄目にしてしまうことにかかるコスト(=機会損失、治安コスト、収監費用など)や、脱法ドラッグや精神安定剤などの法的に取り締まりが難しい薬物への依存が近年増加していることなどを考えると、こういった取り組みに対して投資を行なう価値(=便益)は十分にあると思います。

薬物依存から肉体的にも社会的にも自律を取り戻し、真に自由な人生を送り直せるようになるためのこういった施策が普及して行って欲しいなと思います。

反社会的消費者と日本社会の特徴について(2015年01月28日)

「モンスタークレーマー」の存在は以前から指摘されておりましたが、最近はより悪質化しているようで、この記事ではさらに一歩踏み込んだ表現で、「反社会」化していると述べられています。

http://www.nikkei.com/article/DGXMZO81919230U5A110C1000000/
コンビニでの土下座強要事件や虚偽の異物混入で青年が逮捕された事件は記憶に新しいですが、最近は罪に問われることをためらわない自暴自棄な反社会的消費者タイプのものが目立ってきており、鉄道での駅員への暴行も増加(14%)しています。

また、この記事の後半部では最近増えている新手のクレーマーとして60代以上の男性による長電話が指摘されており(*)、元管理職の男性が商品の製造工程の見直しや今後の再発防止策について延々と問いつめたあげく「報告書」の提出を要求するなど、現役時代の地位と引退後の時間的余裕を笠に着た悪質な事例が挙げられています。

電話によるクレーム対応は従業員が気を病んでしまう場合が多く、この記事では近年急増している会社員の気分性障害(1999年に比べ2倍に増加)の原因の一つはクレーマーの悪質化であると指摘されており、これらの行為に支払われる社会的コストは決して安くはありません。

元来、日本は生産者よりも消費者優位の社会であることは何度も指摘されています。それは環境省や消費者庁の設立など消費者や住民の側の権利を守る取り組みが成功してきた一方で、長時間労働の防止や同一労働同一賃金原則など、労働者側の環境改善が進まない日本の政治状況などをみると明らかです。

欲求不満のはけ口を、言い返せない弱い立場の人々にぶつける一方で、自身は弱者ないし不当に虐げられた被害者であり自分のやっていることは「義挙」であると信じているクレーマーの精神性は、近年のホームレスへの暴力や生活保護へのいわれなき偏見を強化する言説と通底しています。

そして、こういったタイプの暴力をどう抑制すべきかについては記事では電話応対からメール応対への切り替えなどが挙げられていますが、私としてはやはり、彼らには市政や自治活動などの、意思決定に参加できる一方で言動に責任が伴う場に参加してもらい、己の立ち振る舞いを振り返りつつそのエネルギーを意味のある活動に注いでもらえるような、そういった環境をつくることなのではないかなと思います。

なお、反社会的クレーム行為と法律の対応は以下の通りです。

土下座の強要:強要罪
居座り:不退去罪
お金の要求:恐喝未遂罪
大声を出す:威力業務妨害
異物混入と嘘をつく:偽計業務妨害罪

*コールセンターへのクレーム全般における割合も60代以上が最も多いことが指摘されています。

道の駅事業の惨状と経営倫理について(2015年01月23日)

通常、健全な私企業の経営では「リスク」と「決定権」と「責任」の主体が一致しています。そして、産業政策や公共事業に関わる失敗のほとんどはこの原則からの逸脱から起こっています。

http://toyokeizai.net/articles/-/58373
それは、第三セクターや自動車業界再編計画などの官僚主導の事業の多くが失敗してきたことや、オーナー株主でなくリスクを負っていない社長の下で無責任な拡大方針に走り経営破綻したそごうのケースなどから明らかであり、要するに税金を使った事業はこの原則が守られていないということです。

そして、この記事で指摘されている道の駅事業は、初期投資のリスクを負わなくてよく、その代わりに経営に対して地産地消などのノルマが課せられるなど、原則から大きくハズレています。
発生する赤字は、税金から払い続けることになるわけですので、我々市民にとって非常に重要な問題です。

筆者が民からの地域振興の成功例として提示している岩手県紫波町のオガールの紫波マルシェが、銀行から資金を借りてリスクを負うかわりに完全な経営権を手にし、無理のない初期投資と柔軟な運営で黒字を出していることからも、この原則がいかに重要であるかは明らかです。

国交省のコンパクトシティ構想と政治(2015年01月20日)

我々が住む「市」という行政単位について、考察した面白い記事でした。都市としてのコスト削減や、コミュニティの再生などの解決策として提示されていたコンパクトシティ政策実現の困難さを政治学の立場から論じています。

http://synodos.jp/politics/6143

従来は市制において最も重要なのは「集積」でした。経済や商業の集積地である都市部に投資を行なうことはその周辺に住み労働力と消費を提供する郊外住民の利益とも一致していたものが、モータリゼーションやショッピングモールの登場などにより集積地が郊外に移動し、分散型の社会になってきた現代においてその図式は崩れつつあるという趣旨です。
そしてその上で、筆者は政治制度を改めないまま市の産業や商業地区を政治的に集積しようというコンパクトシティー構想に対して疑義を提示しています。

以下、重要な単語や概念をまとめてみます。

記事の問題設定:集積地の発展が郊外住民の利益と結びつかなくなってきた現代において市制はいかにあるべきか。
集積地:市の商業や消費が集まった経済の駆動部。しかし、地価の高止まりや技術的環境の変化(鉄道、モータリゼーション等)により人口が高止まりし、現在の人口割りの選挙制度では発言力が弱い。
郊外:労働者やその家族が住む住宅地。現在の選挙制度では多くの票を持ち、発言力が強い。
戦前の集積地:古くから歴史がある市街地。
戦後の集積地:鉄道駅周辺。
最近の集積地:より郊外の住宅地に近いショッピングモールなど(モータリゼーション)

従来の市政のメソッド:いわゆる「都市計画」。起源は人口増加と経済発展が前提となっていた戦前の市政交付(明治21年)で、人口が集中する都心部の開発を行うとともに、人々の寝所となる郊外の宅地を開発し、また、工場や貧困地域などの「悪所」を改善するというもの。

コンパクトシティ構想:地方の人口減少と市街地の空洞化への対策として、居住地域と商業施設と医療施設を都市部に集約させ、効率化と住環境の向上をはかる施策。しかし、この構想を実現するためには都市部が政治的リーダーシップを発揮しなければならないのだが、現在の選挙制度では難しい。

コンパクトシティ構想の分かりやすいイメージ
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/service/newsletter/i_02_68_1.html

現在の市議会の選挙制度:現在の区割りが厳密にされていない大選挙区制の市議選においては、面積が広く市議の棲み分けができている郊外出身の議員に比べて面積が狭い都心部出身の議員は互いに競合しがちになり、都心部の利益を代表する安定した政治勢力は生まれづらくなってしまう。また、市議会がそういった状態であると、市の全域から票を集める市長や府県議会議員からすれば都市部の再開発よりも議会から独立して市内全域の郊外住民から広く票を集められる交通機関への投資などの政策の方がインセンティブが働くため、結果的にコンパクトシティ構想と対立する。

日本の宗教観について(2015年01月19日)

ある僧侶の方が、「日本における宗教の寛容さ」についてTEDでプレゼンをされています。

確かに、日本は欧米や中東諸国のように宗教を対立軸にした深刻なコンフリクトがほとんど発生していない国です。

http://logmi.jp/34073

しかし一方で私は、このプレゼンで述べられている「日本人の寛容性のある宗教観」は、他の国々に輸出して定着させられるほどの普遍性をもったものなのかなという疑問があります。

日本の政教分離というのは、世俗的な価値観を持った信長と秀吉が宗教弾圧を行い、家康が檀家制度で仏教を骨抜きにして「葬式仏教」にしてしまったことにより、日本人の「宗教」に対する考え方が、ラディカルなものから、そういった無害なもの(=葬式の時にだけ出て来るなんとなく厳かな規律の集まり、汚したり馬鹿にしたりすると怒られる何か、賽銭や寄付をするとご利益があるありがたいもの…etc)に変質してしまった結果ではないかと思っています。

いずれにしても、この日本人の宗教意識の希薄さは、良い悪いの問題ではなく、確かに事実だとおもいます。また宗教対立のすくない平和は続いていってほしいと思います。

渋谷区のホームレス排除に反対します(2014年12月31日)

先日、渋谷区が宮下公園と神宮通公園、美竹公園の3つの公園を封鎖しました。
これは、事実上ホームレスと彼らのために炊き出しを行なう支援団体を排除するためになされたものであり、実際に支援団体の方々も抗議を行なっています。
私も、越谷でホームレスの方々への声かけ運動に関わらせて頂いた経験から、この措置には反対です。

http://mainichi.jp/feature/news/20141226mog00m040041000c.html

また、今回の件で深刻なのは、この3つの公園のうち、神宮通公園と美竹公園が災害時の一時集合場所に指定されていることです。

https://www.city.shibuya.tokyo.jp/anzen/bosai/hinan/basyo.html

つまり、年の瀬に災害が発生してもこの公園近隣の方は避難することができません。緊急時の住民のライフラインを犠牲にしてでもホームレスを排除しようという意図だとうけとれます。地域の公共をになう自治体が区の方針としてそういったことをするというのは、非常に危険です。

一部で支援団体の公園使用許可の提出が遅れていたことを批判する意見もありますが、これらの公園は防災や緊急避難の観点からそもそも開かれていないこと自体が異常なことです。

私は越谷の市政を志し、ホームレスの方々への呼びかけに参加するようになってから、「我々の社会においてホームレスとは何なのか」と考えるようになりました。

実際にホームレスの方々にお会いしてみると、彼らが自分の意志で労働を放棄した末にそうなったのではないというのはもちろん、そういう生き方がしたいからしている「自由人」でもないことがわかります。私が見た範囲では、以前は真面目に働いていたにも関わらず不運に見舞われてそれができなくなり、そのような状況に陥ってしまったという状況でした。
実際に話をしてみなくても、彼らが自分の望みでこの寒空の下でそうやって過ごさざるを得ない境遇を選択したのでないことは、多少想像力を働かせればわかるはずです。

しかし、現状では、先日書かせて頂いた生活保護受給者の方々と同様にホームレスの方々も無理解に晒され、時に凄惨な暴力の対象になっています。

・ホームレスの40%が襲撃を経験したことがある。
・襲撃者の割合は、大人が22%、子どもと若者が38%。他40%は夜間に襲われた等の理由で不明。
http://synodos.jp/society/10257

さらに、そういったホームレスへの憎悪と排除は日本に限った話ではなく、世界中の先進国で頻発しています。

・米国でホームレスへの炊き出しを行なった90歳のシェフが逮捕される
http://t.co/VUhGSI7ijL
・フランスのアングレーム市のベンチに設置されたホームレスよけの柵
http://www.euronews.com/2014/12/26/france-angouleme-council-takes-down-anti-homeless-cages-around-benches-after-/
・英国の「アンチ・ホームレス」鋲について
http://bylines.news.yahoo.co.jp/bradymikako/20140615-00036386/

世界に格差が広がったことで、弱いものがさらに弱いものをたたかざるを得ない世の中になってしまったのかもしれません。私達は同じ人間社会にすむ異なる立場の人達にもっと寛容であらねばなりません。

私は来年も、現場に赴いて市民の皆様の意見を伺い、社会的弱者に共感し助けていくこと、偏見や分断を解除するための発言することを続けていきます。

生活保護費のプリペイド支払いへの疑問(2014年12月28日)

本当に支出を管理すべきなのは政治家がつかっている税金です。「政務活動費」や「立法調査費」を即刻電子マネー化すべきです。

http://logmi.jp/32679

今回の大阪市長の「生活保護受給者は家計管理ができない。」「自立に向けた生活設計をたてることが困難な方」という発言にはとても違和感を感じます。生活保護受給者は家計管理が出来ない人々であるという偏見を強化する恐れがあります。

生活保護を受けているかたは、やむをえない事情で貧困に追い込まれた社会的な立場の弱い人だという基本的理解は失ってはいけません。私自身が夜のホームレスの方への声がけで実感しました。ダンボールにくるまって寝ていた方は、決してまじめに働かなかったから貧困に陥った方ではありませんでした。生活保護とはそういう方々に対して、最低限の生活を送ってもらう資金を提供して、また健全な社会生活にもどってもらうチャンスを提供するものです。私は、生活保護の形態は「入り口は広く、出口も広く」が理想だと考えています。

日本では、まだ電子マネーがアメリカほど進んではいませんから、生活保護受給者のほとんどが移動範囲の狭い高齢者や障碍者であるということを考えると、受給者の選択権を不当に狭め、苦痛を強いることになるという危惧があります。電子マネーが普及し、その匿名性や利便性がたかまるまでこの政策は見合わせるべきだと考えます。

技術的失業とシンギュラリティについて(2014年12月24日)

「技術的失業」という言葉は聞きなれませんでしたが、なるほど面白いと思いました。

「技術的失業」とは技術の進歩により、今まで5人で行なわなければならなかった作業が1人で出来るようになってしまったりすることにより発生する失業のことです。はじめは産業革命が起こった19世紀に経済学者によって提唱され、その後一旦忘却されたものの近年ITの普及によって再検討されるようになっているようです。

近年話題の経済学者トマ・ピケティは「21世紀の資本」の中で現在の資本分配率が近年上昇傾向にあり、最終的にこれが上がりすぎると、能力主義や国民間の平等という民主主義の原則と資本主義経済が矛盾(=能力のある人間よりも親がお金持ちのセレブの方が発言力をもつようになる、所得格差が開き過ぎてお金もちの国民とそうでない国民が分裂する)を来すようになり、危機的な状況に陥るとも主張しています。

「技術的失業」が蔓延することで、機械や人工知能が人間の事務作業や肉体労働を自動化して雇用がなくなり、最終的に生産設備を持っている産業資本家と金融資産家が社会の全てを手にすることになるという未来像は、資本家が労働者を必要とせず利益をあげる社会ですから、資本分配率が極限まで上昇してしまった社会とも言えそうです。

この記事の筆者は概ね上に記したような展開は避けられないとした上で、そういった機械が勝利した世界へ人間が軟着陸するための手段としてベーシックインカムを提唱しています。

http://synodos.jp/economy/11503

冒頭にも書いたように、技術的失業は19世紀から危惧されていたことですが、なくなった仕事以上に、あたらしい仕事も無数に生まれているのも確かです。簡単に人間の仕事がすべて機械に置き換わってしまうことはなかなか想像がつきません。

しかし、記事にもあるようにシンギュラリティ、つまり価値観がひっくり返ってしまう特異点が歴史上何回かあったことも事実です。もしそのような時が訪れた時もそれをつかんで、的確な政策を打ち出せるように社会や経済の情報に注意深くあらねばならないと感じました。