ハンコ文化と役所について

役所には様々な不合理な文化があり、中でも特に問題なのは判子文化だと思うのですが、この判子文化について千葉市の熊谷市長が興味深いことを述べられています。
日本では不動産の購入や自動車の売買の際に印鑑証明が求められていますが、実際にそれは法律で定められているわけではなく、また、免許証などで本人確認を行なえるにも関わらずわざわざ印鑑証明カードを持って来るように義務づけるような仕組みは廃止すべきだとのことです。

http://www.huffingtonpost.jp/2013/06/02/story_n_3376343.html

この制度を世界で採用しているのは日本と韓国くらいであり、その他の文化圏では個人によるサインがほとんどです。また、市長の他の発言では、実は千葉市役所では出勤簿や出張命令簿ですら判子を用いる文化であり、判子文化の廃止の考えを市役所職員に伝えたところ
「ハンコだと押した時の気分などで綺麗だったりずれていたりする。あとで振り返ってその時の自分の気持ちを思い出せる」
などという驚くべき回答が返って来たとのことです。
これらは一見小さな問題かもしれませんが、本質(=本人を確認をするとは如何なることなのか?)を考えずに形式に固執してやらない言い訳を捻りだすことに頭を使う市役所の文化はこういったところから培われていくのだと思いますし、このようなマインドでは何も意味のあることなど行なえないことは明らかです。
私は熊谷市長の意見に賛成ですし、越谷市でも役所の実態を調査したいと思います。

孤独死について(2015/3/20)

私はマニフェストで孤独死の実態調査を訴えておりますが、厚生労働省によると孤独死で亡くなられている方は年間3万人に登るそうです。

孤独死者の中には事前に他人が気付いていれば助かった方も多くおられますし、遺体の損壊が激しく、第一発見者のケアマネージャーの方に心の傷を残すことも記されています。
また、現在30代後半の男性の35%が結婚していない事実を考えますと、これは将来身近なレベルで問題化することは確実ですし、早急に対策をとるべきであると考えています。

http://synodos.jp/newbook/9260

かつて個々人の生から死までを見守り孤独死のような事態を防いでいた日本の村社会にも多くの抑圧があり、また昨今のニュースを見ていてもっと個人として自律して物を考えてほしいなと思うことも多いですが、一方で、本人が気付かないところで多くのもの失わせている孤立というものの恐ろしさにこれから中高年に差し掛かる年齢の方々はもっと敏感になるべきではないかと私は強く思います。

地域社会からの孤立は老化を早め、市のサービスや福祉の情報を得づらくさせます。
また、たとえ意識のはっきりされた高齢者の方でも、福祉を受ける際にホームページや分厚い冊子を手にして、「私もそれを受けている」という友人の声がないせいで自分が本当にその条件に当てはまっているのか判断がつかず諦めてしまうというケースも多々あります。

この記事では市役所職員が家の中を確認するための手続きを簡素化することと、ヤクルトなどの業者への呼びかけ、高齢者の方にお弁当を手渡しするサービスが具体的な対策として挙げられていますが、これらのプラクティカルな対策をとりつつ、より根源的なところで、私個人としましては自主性と合理性を尊重した抑圧的でないコミュニティのあり方や、村社会と孤立の中間にある新しい倫理のあり方を模索していきたいと思います。

「支援」という行為とその喜びについて

これは、非常に興味深い記事でした。

http://synodos.jp/newbook/6112
障碍者の社会復帰の支援の本来の目的は、貧困や障害などの様々な理由で自分の人生から疎外されてしまった本人が再び自分が「主人公」であるという感覚を取り戻すまでの道のりをサポートすることであり、また、そのストーリー共につぐむことこそが醍醐味なのであると述べてられています。

そしてその上で、本人を駄目にしてしまう権力と依存の関係性でもなく、またその逆に全てを本人の「自己決定」としてしまった上で本人が追い込まれてしまった境遇のことやその後の人生のことをまるで考えずにプラクティカルな「対応」しかしないような態度でもなく、その中間にある正しい支援のありかたについて論を展開されています。

これは非常に重要な指摘で、また、政治にも当てはまる議論だと私は思いました。私は昨年から微力ながらホームレスの方々への呼びかけ支援に関わらせて頂いているのですが、他人を支援するという行為にはどうしても支援する人とされる人とのあいだで上下関係の意識が発生してしまう危険性がつきまといます。

人間は基本的に自分が何をなすべきかは他の誰でもない自分自身が一番よく知っているので、その前提とそうであるべきだという目標を崩すと様々な抑圧が発生しますが、一方で、ある境遇に追い込まれることでどう考えても「もう自分には何もできない」としか思えなくなってしまうこともあります。
対極にある二つのアプローチの悪い部分を組み合わせることは簡単(=記事の例にあるところの精神病院)な一方で、良い部分を組み合わせることはそれに比べて難しいのですが、それでも、記事で挙げられている様々な事例には重要なヒントがあります。

以下、これは大事だなと思うことばをまとめてみました。

バカの壁:無意識のうちに採用してしまっているフレームワークのこと。この記事で述べられている「支援者のバカの壁」は、支援者が支援の範囲を福祉施設に限定してしまっていること、支援とは無知な被支援者を上から説得することだという思い込み、そうでなければ全て被支援者の「自己決定」としてなすがままにするしかないという諦観を指している。

説得モード:「~すべきだ」と上から規範や行動を押し付けること。本人の自主性やそこまでに至った敬意を無視する一方で、支援者の側も自分が被支援者の人生全てを抱え込むという不可能な責任を背負い込んでいることが前提になっている。

納得モード:「何に困っておられるのですか? よかったら、どうしたらいいか一緒に考えてみませんか?」と共に考え合う中で、本人が納得して行動変容できるような真上からではなく「斜め上」からの支援のこと。

精神病院:日本には精神科病院のベッドが34万床もあり、これは諸外国に比べておよそ3~5倍。

自己決定:例えば、「病気に疲れ果てた。退院したくない」という精神病患者の意思表明に対して「分かりました。では投薬を続けましょう」と答えることが正解なのかという問題が記事の中で指摘されている。支援者は、自分と本人の関係において(例えば精神科医のように)自分が支配者になってしまっていないか、あるいはその真逆の方向に振れてどうしようにもないものとして放置してしまっていないか、新しい枠組みを提示する必要があるのではないか、と常に問いかける必要がある。

代弁者制度:精神科病院に強制入院させられた際に、当然の権利である本人による異議申し立てを、患者側にたって代弁するための代弁者を立てる制度。アメリカではすでに70年代からこの制度が成立しているが、日本ではまだ実現されていない。

アドボカシー:行政が上から目線で制度を改良するのではなく、NPOや社会起業家が先駆的に支援事業を行なった上で、下から行政に対して制度の改善を要求する社会改善の携帯のこと。

防災、ゲーム、他罰感情

昨日のきたこし駅前防災フェアへの参加の目的のひとつは、避難所HUGゲームに参加するためでした。このゲームは、災害時の避難所のシミュレーション。80歳代のご夫婦が避難してきたら、体育館のどこに休んでもらいますか?など、カードを並べながら参加者で考えていくゲームです。
身体障害者の方、寝たきりの高齢者の方、3日前から高熱を出している方など、扱いが難しい方について、いろいろ議論しながらきめていくわけです。
 
そのなかで「30歳代のひきこもり」が70歳代の親といっしょに来たケースのことでした。参加者の反応はおしなべて冷たく、別室も用意できる設定でしたが、「親にあまえて働かないでサボっているダメな子供」と「こどものわがままをそのままにしているダメな親」なので特別扱いする必要なし、との意見に押し切られ別室どころか条件のわるいところにあてがわれてしまいました。ひきこもりの人が、ほとんどプライバシーのないところにいきなり放り込まれたら強烈なストレスにさらされることになります。そういう障害をかかえているという意味で、身体障害者と同じようにその人の事情に合わせた配慮が必要だったと思います。懲罰感覚で扱うのは配慮がたらず、人に対して優しさも足りなかったと反省しています。

http://www.pref.shizuoka.jp/bousai/seibu/hug/01hug-nani/01hug-nani.html

私の子育てと「女の子」らしさについて

我が家では、2人の娘の子育てについて特に語れるようなことはやって来なかったのだが、一つだけ意識して使わなかった言葉がある。それは正しかったと今もおもっている。

その言葉は「女の子なんだからナニナニしなさい」あるいは「女の子なんだからナニナニしてはいけない」。ある意味では「世間の常識」を教えてこなかったのかもしれない。これから娘たちが「女なのにお茶もいれない」っていわれて当惑することがあるかもしれないが、そんなことは自分で乗り越えてうまくやっていってくれるはずだ。それよりも可能性を制限されない人生を送ることのほうがすばらしく価値がある。

http://www.huffingtonpost.jp/…/29/like-a-girl_n_5540800.html

東日本大震災四周忌と東京大空襲について。

昨日は3.11の4周忌であり、その前日である3.10は戦時中に東京大空襲があった日ですが、最近、この事件に関して驚くべき記事がありました。
要約しますと、空襲になる前の時点で政府は焼夷弾の威力を知っていたにもかかわらず、国民の士気を低下させないためにわざと「大したことはない」「砂や水 をかければ大丈夫」と過小評価した「安全神話」を布告し、報道を遮断し、また被災後も市民の避難を禁じたという内容です。

http://synodos.jp/politics/13238

戦時中と平成に起こったことを比較するのは慎重を期すべきではありますが、私はやはり、戦時中の内務省と現代の政治家ないし行政官には精神の面で通底したところがあり、キーワードは「信頼」だろうなと考えています。
たとえ、制度としての民主主義や諸権利を守る仕組みが確立されても、「市民なんてこんなものだ」「私が彼らを管理し導いてやらねばならない」という、自分 たちを選んだ市民を信頼せず、自己愛に基づいたニヒリズムを克服しないまま統治の論理だけで世の中を回すことには限界があり、それは必ず破綻を来します し、その信頼の確立なくして民主主義が根付いたとは言えないのではないかということです。

そして、災難に直面している個人が、どう考えてもこうすべきだという答えが自分で分かっているにも関わらず、自分ではない誰かが決めた規制や統治や「空気」によってそれを行なえないまま死を強制されることほど悲しむべきことはこの世に存在しない、と強く思います。

私は以前、日本における「武士」の道徳と「商人」の道徳について述べた記事を紹介しましたが、クレジットカード審査のような条件つきの「信用」とは違い、「信頼」というのは相手を無条件で信じる「商人」の側の徳です。
自分が何をなすべきかについては官僚でも学者でも政治家でもない自分自身が一番よく知っていて、また他人もそうであり、ゆえに皆が自分の意思に基づいて行 動する市場(=市民)は常に正しく、それと関わりの中で問題が起きた場合はまずは自分のアプローチが間違っていたのではないかと疑うべきだということで す。

http://yoshito-terashima.com/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%8C%A1%E…/

そして、それには当然、公平性と透明性を何よりも重視し、裁量ではなくルールを重視し、情報公開は義務としてではなく「市場」の審判を受けて正しく反省し 次に活かすためのチャンスとして積極的に行うべし、という規範が導きだされますし、また、それが貫徹された社会は原理的に「人災」被害者が発生しないので はないかと思います。
私がHPで市政の側に身につけて頂きたいと繰り返し述べているマーケティングの感覚というのはつまるところそういったことであり、また、それはどのような 党派の人間であっても最低限身につけて頂かねば困るという意味で、あらゆる思想信条よりも重要なことであると信じています。
私は本日、過去この国で亡くなった全ての「人災」犠牲者に哀悼の意を表明し、このような災厄が二度とこの国で起きてしまわないよう、万人を信頼し、万人の前に情報を公開し、過ちの指摘に感謝しつつ、日々精進して参りたいと思います。

車椅子生活者の日常の困難について

車椅子生活者にとって日常や建物の構造のどういった部分が困るかを指摘した、非常に参考になる記事でした。
バリアフリーは市政が執り行うべきカテゴリーであり、マニュアルやノルマを達成しただけの杓子定規なものになってしまわないよう、当事者の声から学ぶ必要があります。

http://synodos.jp/society/13024/2

以下、要点をまとめます。

1.床ずれ:健常者でも座りっぱなしはきついですし、特に半身麻痺の方は気軽に座り直しができません。
2.バス:揺れるバスの上でさらに車輪が揺れ、また車椅子にはシートベルトがないので、不安定で乗り物酔いもきついそうです。
3.駅のホームと電車の高低差
4.階段:1段は女性のヘルパーでギリギリ。2〜3段は手すりがないと不可能。5段になると手すりがあっても不可能
5.とびら:ファミレスの二重扉はきついとのことです(ヘルパーは片手を車椅子のグリップにあててもう片方の手でドアを開けなければならないため)。店員の方や見かけた方は扉を押さえましょう。
6.車椅子から席への移動:要介護者の方の体に触れるのはヘルパーの方にまかせて、手助けをする人は車椅子を押さえて移動させる役割に回ること。