生身の人間の毀損を防ぐ政治を!:「無職」について


昨年、私は越谷の市政を志して職を辞し、「無職」となる経験をしています。
毎朝その日にやることを自分で決め、自分の足で歩き回り、職場に行けば自然と入って来る世間や業界の情報が無い中で自分が知りたいことを自分で調べなければならないという立場は、正社員の立場がいかに恵まれているかを再確認させてくれる状況でもありました。

それでも私が自分を見失わずにやってこれたのは、自分の街を自分でをよくしたいという目的意識があったことと、私のことを理解し支援してくださった皆様のおかげです。しかし、私の「無職」状態はいわば特別なものであり、失業や貧困という事態がいかに恐ろしいものかは身にしみて理解したつもりです。

人間の精神は失業や貧困に止め置かれる時間が長くなれば凄まじい早さで悪化していきます。
もちろんこの犯人は失業中とはいえ厳粛に裁かれ罪を償わなければならないのは当然ですが、一方で、その年齢で無職の独身男性に「努力が足りない」「自己責任だし、他人に転化するな」などと言っても意味が無いという事実も冷徹に直視すべきだとも思います。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150410-00000116-mai-soci

市場が雇用統計に一喜一憂し経済学者も熱を込めて失業対策を語るアメリカやEUとは違い、日本の政治の議論で失業者や貧困が顧みられることは(左寄りの政党であっても)ほとんどありません。

日本人は保守派も革新派もおしなべて「今の自分達に犠牲を強いることが将来の繁栄に繋がる」といった結論が好きなようです。今目の前にいる失業者や貧困よりも債務や人口の増減という概念にこだわって自治体崩壊やハイパーインフレといった悲観的な未来をもてあそぶことを知的で責任ある態度であると捉える節があります。私は、これは「嫌われる勇気」でいうとろころの「キーネーシスな人生」的な倒錯であり、「人生の嘘」の政治版なのではないかと疑っています。

将来に備える政策が必要なのは当然ですが、私は「いま・ここ」、を重視し、今目の前で生身の人間が損なわれることを防ぐために汗を流し努力することも未来につながると確信しています。