「支援」という行為とその喜びについて


これは、非常に興味深い記事でした。

http://synodos.jp/newbook/6112
障碍者の社会復帰の支援の本来の目的は、貧困や障害などの様々な理由で自分の人生から疎外されてしまった本人が再び自分が「主人公」であるという感覚を取り戻すまでの道のりをサポートすることであり、また、そのストーリー共につぐむことこそが醍醐味なのであると述べてられています。

そしてその上で、本人を駄目にしてしまう権力と依存の関係性でもなく、またその逆に全てを本人の「自己決定」としてしまった上で本人が追い込まれてしまった境遇のことやその後の人生のことをまるで考えずにプラクティカルな「対応」しかしないような態度でもなく、その中間にある正しい支援のありかたについて論を展開されています。

これは非常に重要な指摘で、また、政治にも当てはまる議論だと私は思いました。私は昨年から微力ながらホームレスの方々への呼びかけ支援に関わらせて頂いているのですが、他人を支援するという行為にはどうしても支援する人とされる人とのあいだで上下関係の意識が発生してしまう危険性がつきまといます。

人間は基本的に自分が何をなすべきかは他の誰でもない自分自身が一番よく知っているので、その前提とそうであるべきだという目標を崩すと様々な抑圧が発生しますが、一方で、ある境遇に追い込まれることでどう考えても「もう自分には何もできない」としか思えなくなってしまうこともあります。
対極にある二つのアプローチの悪い部分を組み合わせることは簡単(=記事の例にあるところの精神病院)な一方で、良い部分を組み合わせることはそれに比べて難しいのですが、それでも、記事で挙げられている様々な事例には重要なヒントがあります。

以下、これは大事だなと思うことばをまとめてみました。

バカの壁:無意識のうちに採用してしまっているフレームワークのこと。この記事で述べられている「支援者のバカの壁」は、支援者が支援の範囲を福祉施設に限定してしまっていること、支援とは無知な被支援者を上から説得することだという思い込み、そうでなければ全て被支援者の「自己決定」としてなすがままにするしかないという諦観を指している。

説得モード:「~すべきだ」と上から規範や行動を押し付けること。本人の自主性やそこまでに至った敬意を無視する一方で、支援者の側も自分が被支援者の人生全てを抱え込むという不可能な責任を背負い込んでいることが前提になっている。

納得モード:「何に困っておられるのですか? よかったら、どうしたらいいか一緒に考えてみませんか?」と共に考え合う中で、本人が納得して行動変容できるような真上からではなく「斜め上」からの支援のこと。

精神病院:日本には精神科病院のベッドが34万床もあり、これは諸外国に比べておよそ3~5倍。

自己決定:例えば、「病気に疲れ果てた。退院したくない」という精神病患者の意思表明に対して「分かりました。では投薬を続けましょう」と答えることが正解なのかという問題が記事の中で指摘されている。支援者は、自分と本人の関係において(例えば精神科医のように)自分が支配者になってしまっていないか、あるいはその真逆の方向に振れてどうしようにもないものとして放置してしまっていないか、新しい枠組みを提示する必要があるのではないか、と常に問いかける必要がある。

代弁者制度:精神科病院に強制入院させられた際に、当然の権利である本人による異議申し立てを、患者側にたって代弁するための代弁者を立てる制度。アメリカではすでに70年代からこの制度が成立しているが、日本ではまだ実現されていない。

アドボカシー:行政が上から目線で制度を改良するのではなく、NPOや社会起業家が先駆的に支援事業を行なった上で、下から行政に対して制度の改善を要求する社会改善の携帯のこと。